監獄の感性学 Carceral Aestheticsとは何か?刑務所アートを考える芸術論

「刑務所アート」を考える芸術論をご紹介してみたいと思います。刑務所アートを論じる際、さまざまな捉え方が考えられます。たとえば、代表的なものとして「アウトサイダー・アート」や「アール・ブリュット」という概念があります。これは、専門の美術教育を受けていない者による独学自修の作品を捉えるうえでよく使われます。あらゆる人々が創造性をもっていることを示すうえで、とても大事な概念ではあるのですが、これらは作者の属性によって定義づけられてしまう側面があります。刑務所アートは「受刑者アート」ではないので、作者が受刑者であることが条件ではありません。

では、どう考えたらよいのでしょうか。

その時に、ニコル・R・フリートウッド(Nicole.R.Fleetwood)さんという、アメリカの研究者が提唱する「監獄の感性学 Carceral Aesthetics」という概念がヒントになります。

監獄の感性学とは何か?

フリートウッドさんは、長年にわたって収監されたアーティストへのインタビュー調査や、刑務所内のアートプログラムの参与観察、そしてアメリカ社会にある大量投獄(mass incarceration)という文脈における視覚文化の分析を行なってきました。その研究成果として、2020年にMoMA PS1(ニューヨーク近代美術館MoMAの別館)という場所で、大規模な展覧会「Marking Time: Art in the Age of Mass Incarceration(時を刻む:大量投獄時代のアート[*1])」をキュレーションしました。収監中のアーティストや、収監された経験をもつアーティストの総勢35人以上の作品を展示した大規模な刑務所アート展です。

この展覧会タイトルと同名の著書『Marking Time: Art in the Age of Mass Incarceration』のなかで、「Carceral Aesthetics 監獄の感性学」が提唱されています。「監獄の感性学」と翻訳することが適切かどうか、やや悩み中です。「carceral」は、「監禁の」とか「刑務所の」といった形容詞で、「aesthetics」は本来は「美学」という学問分野なのですが、「監獄の美学」とした場合に、どこか、「男の美学」みたいな時に使われる「美学」のイメージが伝わりそうだと思い、あえて「感性学」としてみています。このあと説明するように、投獄されるという経験が人々の感性に大きな影響を与えてしまうからです。

この本のなかで、「監獄の感性学」はさまざまな仕方で説明されるので、ひとことで定義することが非常に難しいのですが、端的に説明した箇所を引用してみます。

「これは(引用者注:監獄の感性学は)私が用いる概念であり、収監されたアーティスト同士の間、収監されたアーティストと収監されていないアーティストの間、そして増えつつある、芸術を通じて投獄国家(carceral state)に言及する社会参加型アーティストの間における、多様な関係性に基づく芸術実践を考察するための概念である。この概念は、大量投獄の時代に生み出されたさまざまな自由/不自由の状態を横断して行われる、芸術制作や文化的関与の形態を記述するものである。」(Fleetwood 2020:25、引用者訳)

この定義の中に重要な特徴がいくつかみられます。

第一に、監獄の感性学は「受刑者が作る芸術」に限定していません。収監中のアーティストのみならず、収監されていないアーティスト(出所したアーティストなど)、あるいは服役経験を持たない支援者や活動家、(投獄国家に言及する)アーティストも含む「さまざまな自由/不自由の状態を横断する」人々による実践としています。例えば、父親が収監されており、小さな頃から父親と面会をするなかで刑務所に通ってきたというSable Elyse Smith(セイブル・エリス・スミス)といった作家も紹介されています。

第二に、「関係性」に基づく実践としている点です。アーティスト同士の「間」、収監されたアーティストと収監されていないアーティストの「間」というふうに、刑務所内外の複数の主体の間に生まれる関係性の実践として捉えられています。刑務所の内側で実践されるものだけではないということですね。

フリートウッドさんがインタビューした刑務所にいるアーティストたちは、「芸術制作が自分たちにとってコミュニティとの帰属意識を生み出した」こと、「収監された下での芸術制作を、受刑者同士の友情を育む関係性の実践として、時には刑務所職員や美術教師との間でも友情を育むもの」として語ったそうです。そのことにフリートウッドさんは強く心を打たれたと述べています。結論部においても、この「関係性」を強調してきたと繰り返し述べられています。

ちなみに、ちょっと現代美術に詳しい方はご存知のとおり、「関係性の美学」というものを論じたニコラ・ブリオーというキュレーターがいるのですが、フリートウッドさんの著書でも、このニコラ・ブリオーの話が少し出てきます(グラント・ケスターの「対話の美学」も出てきます)。が、彼らが想定している「関係性」は移動可能な人たちでしょ、と。監獄の感性学では、「芸術界によって軽視され無視されてきた関係性の様式を前面に押し出す」ものであるといいます(Fleetwood 2020:32)。だからこそ、監獄の感性学において「被収容者による創造的実践は、芸術や美的判断を『自由で、移動可能で、白人で、西洋的な男性』と結びつけてきた従来の美学的伝統に、根本的な挑戦を突きつけている」(Fleetwood 2020:25)といいます。かっこいいですよね。

そして、この監獄の感性学が主張することとして、刑務所でのアート実践がしばしば語られてきた「リハビリテーション(更生、回復)のためのアート」という枠組みは使いません!と宣言されていることです。

「リハビリテーション的枠組みに対する私の主な懸念は、それが個人の変容に主眼を置くあまり、投獄国家(carceral state)がいかにして犯罪者という主体を生み出し、集団全体の生活の可能性を狭めているかについての分析や批判を提供していない点にある。リハビリテーション・アートの枠組みは、私が芸術、美学、そして投獄国家の間に描き出そうとしている、より大きな構造的・政治的関係には触れていない。さらに、私が芸術と関わるのは、人間を檻に閉じ込めること、そして刑務所を生み出す条件を終わらせるという、廃止論(abolition)的なビジョンを通じてである。したがって、私は刑務所アートを(刑務所や臨床の現場で用いられるような)必ずしも治療的(セラピー的)あるいはリハビリテーション的なものとして論じるわけではないが、多くの (刑務所に収監されている)アーティストが、刑務所内での癒やしやコーピングの一環としてアート制作を利用し、理解していることは認め、尊重している。」(Fleetwood 2020:8、引用者訳、引用者強調)

最後の一文にある通り、アートが刑務所にいる人々にとって癒しの効果をもっていたり、肯定的な変化をもたらしたりすることそれ自体を否定するわけではありません。しかし、個人の変化に目を向けることで見落とされてしまう、構造的・政治的関係を捉えたい、ということです。

現在、アメリカ社会は200万人以上の受刑者がおり、「大量投獄 mass incarceration」と呼ばれる状況が起きています。その多くは、黒人の受刑者が占めており、明らかに人種差別的な司法制度運用となっています。そうした状況のなかで、廃止論(アボリション)とよばれる運動が出てきます。監獄や刑罰の廃止だなんて、そんなの無理でしょ!って思われると思います。が、アボリションは、単なる制度の撤廃を目的とするものではなく、「暴力に対してさらなる暴力で応答する社会構造を問い直し、処罰に代わる条件を構想し続ける、長期的姿勢[*2]」を指すといいます。つまり、既存の刑事司法とは異なるオルタナティブを想像—創造しよう!ということだと思うのですが、これは、PACの活動にも共鳴するものがあると思っています。

この廃止論や黒人急進主義(black radical tradition)、人種資本主義と言った概念も重要な文脈なのですが、また別の記事が必要になってしまいますので、いったんこの辺にとどめます。雑誌『同朋』でもアボリショニズム特集が組まれたことがありますし、やはり外せないのはアンジェラ・デイヴィスさんの『監獄ビジネス  グローバリズムと産獄複合体』や『アンジェラ・ディヴィスの教え—自由とのたゆみなき闘い』です。気になった方はチェックしてみてください。

*1:この翻訳は坂上香による『毎日新聞』での連載記事「回復/修復に向かう表現 美術館で語り合う大量投獄の時代/上 「監獄」展覧会,米国を反映」(2022年8月9日)を参照しました。

*2:坂上香(2026)「交差性としての「津久井やまゆり園事件」アボリション・フェミニズムを手がかりに」『シモーヌ 2026年冬号』サッフォー

これまでの刑務所アート展から監獄の感性学を考えてみる

では、具体的に作品を見ていきながら考えてみます。フリートウッドさんが取り上げている作品は、インターネット上で見つかるものばかりではなく(特に収監されたアーティストの作品)、画像を提示できるか権利関係もわからないので、これまでPACで展示してきた刑務所アート展の作品から、考えてみたいと思います。

フリートウッドさんは、刑務所アートが生まれる条件として、「刑罰的空間(penal space)」、「刑罰的時間(penal time)」、「刑罰的物質(penal matter)」という3つの要素をあげています。順番にみていきましょう。

刑罰的空間 penal space

「刑罰的空間(penal space)」とは、単に刑務所そのもの、拘禁のための建築空間を意味するだけではありません。それだけではなく、家族関係や家庭空間の断絶、移動や行動の自由への制限、さらには、収監された人々が隔離・処罰・監視される地理的、物質的、社会的、心理的環境を、厳しく監視されたかたちで経験することをも指しているといいます(Fleetwood 2020:38)。

刑務所は、あらゆる場面で接触、親密さ、アクセスを制限します。そうすることで、刑罰的空間はその建築的環境を超えて、刑務所の外にも広がります。例えば、出所後も続く保護観察や仮釈放中の絶え間ない監視などです。刑務所の建築内部に止まることなく、監視国家の広範な拡大によって刑罰的空間は外にも広がっているのです。

芸術制作との関係では、刑罰的空間は制作が行われる場所の条件として機能する(Fleetwood 2020:38)。構造化されたワークショップのプログラム、あるいは趣味・手工芸室、レクリエーションエリア、時には独房で一人きりで創作を行うなど、収監された者が制作を行う場所や環境を指します。

例えば、次の作品は、岩崎風水さんの《老若独居》という作品です。中央の人物がペンをにぎり、何かを考えるように上を見上げながらノートに向かっている様子が描かれています。手前には布団に横になるもう一人の人物がいます。タイトルからわかるとおり、本来は独居室でありながら2人の人物が同じ部屋にいます。これは、日本にもかつてあった過剰収容時期の居室内を描いたものになります。

あるいは、次の作品は作家名・謎の画家Dさんによる「横浜刑務所の中のようす」です。美術的な静物画のモチーフっぽい見立てで描かれています。Dさんは油彩画の経験があったそうですが、刑務所の中では水彩画しか使えないため、水彩画で油彩画っぽく描く技法を探究されていたといいます。これは、あとで説明をする「刑罰的物質」にもつながります。いわば、限られた画材で作品をつくっているということです。

白色のガーゼが敷かれた木の机がある。机には湯飲み、やかん、観葉植物の枝ものが二つある。一つは水の入ったガラス瓶にさしてあり、もう一つはそのままねかせてある。机の下の棚からカギがはみ出している。机の右上にストライプの服がある。背景は灰色である。

あるいは、川柳作品にも少し空間を感じさせるものがあります。作家名・トレモロさんによる「スナック協奏曲」という作品です。

厳かに 皆と響かす ポテチ音

これは、作者のトレモロさんにとって、とても大事な月に一度、おいしいお菓子を味わう喜びを分かち合える時間を詠んだものです。刑務所内では、お菓子を食べる時も交談が禁止されているといいます。無言の厳粛な雰囲気の中、大人たちが真面目な表情でスナック菓子を一心に食べているという情景を詠んだ見事な川柳です。ポテチ音だけが響く空間が浮かんできます。

刑罰的時間 penal time

続いて「刑罰的時間 penal time」とは、収監者とその愛する人々の生活に影響を及ぼす多様な時間性を包含する概念であるといいます。拘禁刑などの量刑が時間で示されるように、現代の刑罰理論がいかにして時間を懲罰の様式へと変容させるかを問いかける概念です。端的には、日本でも「拘禁○年」という仕方で、時間を奪うことが刑罰(自由刑)となっていますが、これは受刑者本人のみに降りかかるものではなく、刑務所の外にいる家族や友人など近しい人々、あるいは支援者にも影響を及ぼすものと説明されています。

日本の服役経験者の間では、しばしば「浦島太郎」という表現を聞きます。例えば、自身が入所した時にはスマートフォンなどはない社会で、出所後にはそれらが当たり前に使われている社会に変わっており、刑務所内(入所時)で時間が止まったままの「浦島太郎状態」と表現されます。こうした状態は、多くの場合に社会復帰に困難が伴います。

次の作品は、作者が恐竜に見立てられた作品です。作家名・masaさんによる「夢〜私と社会〜」と題されています。masaさんは「恐竜は私です」と説明しています。そこから推察するだけではありますが、崖に立つ太古の存在である恐竜=私と、夜の輝く街との対比には、どこか時間が止まったままの自身の自画像を感じさせます。

紫色の空。左側には、大きな丸い月があり、周囲を明るく照らしている。空の下には、5つの茶色い山がある。山の麓には、明かりがぽつぽつとあり、町へつながっている。明かりのついたビル群がある。その手前に、ピンク色の大きな恐竜が立っていて、振り返るように、月明かりを見つめている。足元は岩のような茶色い地面。

「一日も早く社会へ帰れる日を夢見て」という説明があるのですが、刑務所の中に流れる時間の特徴として、「待つ」という時間の流れがあります。これは、フリートウッドの著書でも言われていることですが、日本の刑務所でも同様です。日本の刑務所には「時計」がないことがしばしば指摘されます。そこでは、起床の時間や食事の時間、作業の時間、入浴の時間などは、チャイムや刑務官による指示によって決まります。受刑者たちは、食事を待ち、作業の終わりを待ち、手紙を待ち、面会を待ち、最終的には出所するその日を待つなど、「待つ」という特殊な時間の流れがあることを、作品から感じることがあります。

エッセイ作品にも、この「時間」を哲学的に扱った作品があります。作家名・らんぱぱさんの「与えられた時間」と題されたものです。一部抜粋してみます。

自由な時間の代わりに、強制的な労働を課し、拘禁する。これが懲役刑である。誰もが懲役とは時間を奪われるものだと思っている。奪われるためには予め自分で持っていることが必要だけれど、果たして本当に自分は自由な時間というものを持っていたのだろうか。主体的に、責任を持って、時間と向き合っていたのだろうか、と私はふと気付かされる。
(中略)
この中で流れる時間というのは外で流れる時間よりもだいぶのっぺりしている。それは誰もが時の経過を待っているからだ。これは自分で時間を持っているとは、お世辞にも言えない。
(中略)
私の時間は私だけのものでもない。私の帰りを待ってくれている妻と幼い娘からも、大切な時間を与えられている。一分一秒も無為に消費してはならないとは常に自戒しているところである。自分の時間を生きることは、他人の時間を生きることであると気付くことで、責任も湧いてくる。私の更生は、このように時間と向き合う中で始まったのである。

「時間の流れはのっぺり」と表現されていますね。そして、「時の経過を待っている」という、まさに「待つ」という時間の流れが表れています。「私の時間は私だけのものでもない」との言葉にも、フリートウッドさんが言っていた通り、この時間は家族や親しい人の間にもある、時間概念であることがわかります。

刑罰的物質 penal matter

最後に「刑罰的物質(penal matter)」です。これは、刑務所内での物品へのアクセスの極端な制限と、収監された自身の身体そのものが「国家の抽象化された法的所有物」となるという条件を指します(Fleetwood 2020:42-43)。

先ほどみた、謎の画家Dさんの「横浜刑務所の中の様子」という静物画も、本当は油彩を使いたいけれど、水彩絵の具でなんとか油彩表現をしようと実験したものです。

あるいは、次の作品は、PACから応募用紙として送ったA4のコピー用紙の裏面に、ボールペン一本で描かれた、作家名・おたふくさんの、「無題」と題された連作です。刑務所では、誰でも使える文具として、黒・青・赤の3色のボールペンがあります。色鉛筆やその他の絵の具などは、許可が降りた人だけが使えるものになります。まさに、使えるものを使って作品をつくるという力作です。

さらに、作家名・太陽の国光怒(ひかるど)さんの「南米の美魔女」には、次のような作品説明があります。

15年前から友達が私に絵の書き方を教えてもらいました。それからず〜と鉛筆のみで絵を書いてきましたが、皆さん知っている通り最近鉛筆等を使えなくなりとても悲しいです。この絵はHBと2Bのシャープペンシルで書きました。6Bが無いため濃くすることができず苦労しました。

絵の描き方は友人に教わったという関係性の実践が表れています。そして本当は濃い鉛筆が使いたいけれど、シャープペンだけで陰影をつけることに苦労をしたという刑罰的物質を想起させます。

横長の画面に女性の肖像が描かれています。女性の顔は少しだけ左に向いていて、目は真っすぐに前を見つめています。つばの広い帽子をかぶり、肩より長い髪が風になびいています。耳には輪っか型のイヤリングを、胸元には十字架のペンダントをつけています。女性を囲むように、バラの花が四輪描かれています。

なお、PACではこの作品をハンカチにして活動資金のためのグッズ販売をしているのですが、これを作者である太陽の国光怒さんにお送りしたところ、許可されず、代わりに母国にいる母親に送って欲しいという依頼をうけ、大使館を経由するということで送りました。届いたのかどうかはわかりません。しかし、このように家族に対してギフトになるものとしても、刑務所アートの関係性の側面として捉えられます。

刑務所ではどんな文具類や画材が使えるのか、このあたりについては、PACの過去のオンライン研究会で、岩崎風水さんが刑務所内の表現環境を説明してくれていた動画があります。

フリートウッドさんは、この刑罰的物質のなかで、もう一つ「刑罰の色調(penal hues)」という概念を示しています(Fleetwood 2020:43)。刑務所における「色」の政治的・制度的な機能を分析するための枠組みです。例えば、アメリカの刑務所施設内の特定の色は、収監者が越えてはならない境界線を画定していることがあるといいます。刑務所職員専用区域を示すために黄色やオレンジ色で塗られた線などです。あるいは、一部の刑務所では、服の色はセキュリティレベルを表します。成人刑務所では、色によって年齢区分が示されることもあり、18歳未満の者は一般の受刑者とは異なる制服を着用する場合があるそうです。最も重要なのは、肌の色が、誰が刑務所に行くのか、どのくらいの期間服役するのか、そして収監中の環境を決定づけるということです(Fleetwood 2020:43-44)。

さらに、刑務所では受刑者が絵の具やマーカー、その他の色彩表現手段を利用できる機会が限られてもいます。これは先ほども説明した通りです。なので、日本の刑務所でも、よく「色がない」ということを聞きます。刑務所アート展に送られてくる作品に対して、「思ってたより鮮やかな絵が多い」という感想も聞くのですが、それは色のない環境に対する抵抗かもしれません。「制度的な色の管理」に対して、収監されたアーティストたちは「色彩による抵抗」を実践してきたとフリートウッドさんは説明しています。

「鮮やかな赤や青といった特定の色は、金属や可燃性物質などの化学物質を含んでいるため、ほとんどの刑務所で禁止されており、入手できない。こうした制約ゆえに、収監中のアーティストたちは色を革新する。彼らは、刑務所内に存在する材料を用いて、独自の絵の具、染料、着色剤を作り出す。ほとんどの刑務所に存在する、くすんで退屈な色彩構成を背景に、彼らの実験は美的環境を広げていく。収監中のアーティストたちは、ヘアケア製品、印刷物、紅茶、コーヒー、キャンディ、靴磨き、クールエイドなど、液体に溶けて色を生み出すものなら何でも使って染料を作る。」(Fleetwood 2020:44、引用者訳)

もちろん、日本の刑務所では(おそらくアメリカの刑務所でも)、ある物品を目的外の使用をすると懲罰の対象になるといいます。たとえば、「ノートは学習用だからと、落書きはダメだ」と言われたりなど。PACに届いた作品でも、便箋の中央に短歌が書かれたものと、まったく同じ短歌が便箋の最初の行に書かれたものがあり、なんだろうと思ったら、手紙で「もしも中央に書いたものが許可されず送れなかった場合は、最初の行に書いたものを使ってください」とありました。結局届いたのですが、そのくらい、使える物品そのものも限られていますが、「使い方」まで厳しくチェックされます。

この懲罰のリスクを犯してでも、表現に挑むことを「美的リスク」なんて呼んでいたりもします。

刑務所アートの素材とは

このように、「刑罰的空間」「刑罰的時間」、「刑罰的物質」を理解したうえで、改めて「監獄の感性学」は次のように説明されています。

「『監獄の感性学(carceral aesthetics)』とは、不自由な条件下で芸術を生み出すことを指し、刑罰的空間・時間・物質を創造的に活用する営みである。移動の制限、不可視性、烙印(スティグマ)、アクセスの欠如、そして早すぎる死が、被収容者たちの生活とその表現能力を支配している。こうした剥奪の状態そのものが、刑務所アートにとっての素材であり主題となる。」(Fleetwood 2020:25、引用者訳)

先ほどの説明では、刑罰的空間を表す作品はこれ、刑罰的時間を表す作品はこれ、というように対応させてきましたが、これらが組み合わされている表現ということです。そして刑罰的空間、時間、物質は、刑務所アートが生まれる「制約の構造」であると同時に、これらの制約が同時に「芸術的実験と革新の源泉」となりうるという点でもあります。

関係性の実践としての刑務所アート

ここまで、作品そのものを「監獄の感性学」から捉えることをしてきました。しかし、忘れてはならないのは、「関係性の実践である」ということでした。PACでは、作品をきっかけに対話の場をつくることや、作品に対してコメントシートを来場者に書いてもらい、それを応募者である作家に返すということをしてきました。作者からは、次のようなお手紙をもらいました(ご本人の許可を得て公開しています)。

「今回のアート展に参加できたことは、自分にとって人と関わる上で、自信になっていくと思います。来場者の感想コメントは噛み締めて読みました。この喜びはおそらく風間さんの想像以上のものだと思います。この展覧会で一番意義のある点はどこかと尋ねられたなら、僕なら感想コメントの添付だと答えます。(中略)来場者のコメントは、一言であろうと、誤解があろうと、自分というたった一人の人間に向けられた言葉だということです。チャリティーであろうと刑罰であろうと、いくら優れた法律や制度であろうと、相手は誰だって構わない訳です。でも感想コメントは違います。自分が作品をつくって初めて生まれたもの。自分だけに向けられた言葉です。他の人が読んでも意味をなさない言葉というのは、自分が確かにこの世に生きている証になるのだと思います。」

「自分ひとりに向けられた言葉は特別です」と言ってくれました。壁で隔てられた、刑務所の内と外をつなぐ交流の回路をひらいていくこと、これもPACが行う刑務所アート展の大事な要素です。

また、作家名・もちさんの「キング・オブ・紺ト・緑3」という作品は、刑務所の居室内を感じさせる意味では、刑罰的空間を表してもいるのですが、画面左上に「BUoY」「刑務所アート展」という文字があるのがわかるでしょうか。これは第3回刑務所アート展に送っていただいた作品ですが、第2回刑務所アート展の会場であった「BUoY」という文字が書かれているのです。PACとの関係性のうえにあるように感じられます。だいぶパンチの効いたタッチですが。

共同室に6人の受刑者が足を組んで座っている。6人の視線の先には身体が細くて小さい受刑者が震える姿がある。どうやら6人で寄ってたかってその小さな受刑者をいじめているようだ。右上に刑務官の姿がある。刑務官の横にある吹き出しには「私も家族も犯罪なんて絶対しないし関係ないね」とある。中央には赤色の文字で大きく「教えてあげているだけ」とある。

さらに、PACではこれまで、長谷川敏彦さんと奥本章寛さんという二人の死刑囚の作品を展示してきました。長谷川さんは、すでに死刑が執行され亡くなっています。その絵は長谷川さんが殺害した相手の兄にあたる原田正治さんが持っていました。つまり、被害者のご遺族が加害者である長谷川さんの絵を保管していたのです。原田さんは、長谷川さんから送られてくる手紙と絵にたいして、ひとこと言ってやろうと、当時長谷川さんが収監されていた時に面会に行ったのです。その経験を話してくださったトークイベントもひらきました。被害者と加害者が対話をすることの意味、修復的司法は何を目指すのか、そんなことを原田さんに語っていただきました。

もう一人は「色鉛筆訴訟」を起こした奥本章寛さんの作品です。奥本さんの作品は、支援者である荒牧浩二さんが保管していたものを借りました。荒牧さんは、奥本さんが描いた絵をカレンダーやポストカードとして販売して、その収益を被害弁済にあてていました。「カレンダーの12ヶ月分、12枚の絵を描くことが、奥本にとって拘置所でできる唯一の償いであったからこそ、死刑の執行を待つ日々の中でそれでも生きる理由のような何かとして描いているのではないか」と、荒牧さんはいいます。

原田正治さんと荒牧浩二さんの活動を紹介することは、「絵」が人々の関係性のうえにあることを改めて示すものでした。

死刑確定者の奥本章寛さんによる色鉛筆の絵画の展示の様子。故郷の風景が描かれている。
奥本章寛さんの絵画。額装は支援者の荒牧浩二さんによるもの。

*関連記事:「活動レポート「加害/被害の距離と対話」

*関連記事:「10月1日(水)より開催!和歌山県立図書館にて「プリズンアート展〜”なぜ犯罪を?”考える社会に〜」」奥本さんの作品を展示しました

監獄的視覚性 carceral visuality:刑務所アートは何を可視化するのか

フリートウッドさんは、加えて「監獄的視覚性(carceral visuality)」という重要な概念を提示しています。これまでに見てきたとおり、監獄の感性学は、刑務所に収容されている人々が生み出す芸術や美学に焦点を当ててきました。収容されている人々のアート実践に注目する重要な理由は、「投獄国家(carceral state)が人々を自宅や地域社会から引き離すだけでなく、公的な生活において刑務所やそこに閉じ込められた人々がどのように見られるのかをかたち作っているから」だといいます(Fleetwood 2020:15)。

刑務所の存在やイメージが、大衆娯楽や報道、ドキュメンタリーなどの映像制作者によって定型化されたイメージを作り出し、それが人々にとって刑務所を親近感のあるものにすると指摘します。

大衆娯楽、ジャーナリズムによるスクープ報道、ドキュメンタリーにおいて、「鉄格子越しの生活」のイメージは、人々を魅了し、恐怖させ、刺激する。それらはまた、現代生活の礎石となる制度としての刑務所への親近感をもたらす一方で、大多数の人々が決して足を踏み入れることのない場所でもある。収監されていない一般市民は、国家や収監されていない映像制作者によって作り出された、ある種の定型化されたイメージ——逮捕写真、顔写真、刑務所独房の簡素な備品、要塞のような壁、有刺鉄線、鉄格子、金属製の扉、そして死刑執行用の椅子といったイメージ——を通じてのみ、刑務所や受刑者を認識するようになる。(Fleetwood 2020:15、引用者訳)

私も刑務所を舞台にしたドラマや映画はよく見てしまいます。自分自身が見ることがない世界ゆえに、魅力があるからです。刑務所のイメージは、魅力的で親近感をもつ一方で、多くの人々は決して足を踏み入れることのない場所です。この刑務所への「慣れ親しみ」が刑務所の存在を正常化させるといいます。つまり、刑務所や人を投獄する制度や場所を持つことが当たり前だと思わせます。そこで見落とされるのは、「投獄がいかにして市民権を剥奪し、直接的な影響を受ける人々の親密な関係、家族の絆、社会的ネットワーク、そして公的な生活を変化させてしまうか」という、刑務所が及ぼす深刻な影響です(Fleetwood 2020:15)。

投獄国家が持つ力とは、人々を「逮捕し、拘束し、可視化したり不可視化したりする」力であり、「誰が何を見ることができるかを構造化」する力であるといいます。監獄的視覚性は「不可視にすると同時に過度に可視化する」点にあります。収監された者は公的生活から「不可視」にされながら、同時に「犯罪者」というカテゴリーとして「過度に可視化」されます

例えば、何か事件があった時の報道でよく目にするのは裁判の様子を描いた「法廷画」のあの独特なタッチです。あるいは、刑務所内を報道する時、プライバシーの観点からではありますが、受刑者の方にはモザイクがかけられます。顔のない存在として映されてしまいます。この視覚的効果は、やはり、私たちとは異なる「受刑者」という他者化されたイメージをつくってしまいます。
(念の為ですが、モザイクをかけるべきではないという意味ではありません。結果的に視覚的な効果をつくってしまっているということです。)

刑務所アートは、この監獄的視覚性に介入する実践として理解されます。いわば、マスコミやエンタメ作品などで可視化される仕方とは、異なる仕方で可視化を試みようということですね。

え、でもそしたら「刑務所アート」なんて名前にしたら、それこそ作品を見る人に色眼鏡をつけさせちゃうんじゃないの?と、思いますよね。フリートウッドさんも過去に、こうした指摘を受けたことがあるそうです。そこで、フリートウッドさんが企画したトークイベントでの、元受刑者の方のアーティストの話が、エピソードとして語られます。

私が司会を務めた、元受刑者のアーティストを招いたアーティスト・トークの席で、聴衆の一人の男性が、一般の人のアートを見る際、その作品が作られた環境の重要性などほとんど議論されないと指摘した。元受刑者のアーティストもこれに同意しつつも、刑務所内でアートが制作される場合、その制度的文脈の重要性を無視することは不可能であると明言した。彼は、刑務所に入ったことで自身の芸術作品が大きく変化したと述べた。その環境、時間の制限、刑務官の絶え間ない監視、そして素材へのアクセス制限——これらすべてが彼の美的視野を変えたのである。彼にとって、刑務所という時間、物質、空間は、より意図的で反復的で、時には機械的ですらある制作プロセスを生み出した。それは、多大な労力と時間を要する作品を生み出すものであり、もし懲罰的な監禁状態になければ、決して制作しなかったような作品だったのである。(Fleetwood 2020:12、引用者訳、引用者強調)

このエピソードからも、従来のアウトサイダー・アートに含めるのではなく、「刑務所アート」であることを示すことの重要性が浮かんでこないでしょうか。刑務所内でアートが制作される場合、その「刑務所」という制度的文脈の重要性を無視することはできないからです。あるいは、投獄される経験がその人に与える影響も作品は伝えてくれます。作品を通して大量投獄がもたらしている影響を、感性的な側面から伝えられる、これが刑務所アート、監獄の感性学の実践の可能性だと思います。

フリートウッドさんが捉えた刑務所アートは、「自由を構想し、芸術を創造し、世界を想像し、抵抗と生存の道を見出すという、囚われた人々の長い歴史の一部」であるといいます(Fleetwood 2020:6)。

私にとって、より重要に感じた論点は本書の第5章で語られる「刑務所アートのコラボレーションのあり方」についてでした。アメリカの刑務所で行われるアートプログラムの多くは、外からアーティストがやってきて受刑者に提供するかたちが多いそうですが、外からやってくる自由に出入りができる存在と、プログラム終了後はまた檻に戻っていく受刑者たちとでは、大きな力の非対称性があります。決して対等になれるわけではないけれど、収監された人々の創造性を搾取することなく、協働するにはどのような目標を持つべきか。それがアボリションにつながっていくのですが、この論点については、また機会があれば。

文責:風間勇助

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