作品タイトル
67歳のラブ・レター
作者
獄中34年生
作品本文
あなたとの出会いは、私が淡路島のペンションでバイトをしている時でした。あの夏ーーあなたは、シンプルで、どちらかというと、地味な、黒地のワンピースの水着を着ていました。でも、直視できないほど、眩しいくらいに、あなたは輝いていました。ーー文字通り、一目惚れで した。清楚で控え目で、それでいて芯がしっかりした女性。そして、何よりも、美しい心根を持った女性、という印象でした。ーー結局、私のこの印象は間違っていませんでした。
あの日の出会いを、私は今も忘れることができません。
なぜなら、私は、この出会いが、運命の出会いになると、あの日、確信したからです。それば、"約束事"のようなもので、意志を孕んでいたような気さえします。私はこの人と必ず一緒になるだろう、そういう予感に似た意志です。
ーーあの日から、45年経ちました。
その後、約2年半の交際期間がありましたね。
ある日のこと、私は待ち合わせの喫茶店へと急ぎます。仕事が長引き、約束していた時間に2時間も遅れています。『流石に、もういないか…』店内を見渡すとーーいました。ホッとする私を見付けると、あなたは、優しく微笑んで、手にしていた文庫本を閉じました。
ーーいつも、こんなカンジでした。私は遅刻の常習者でした。数え切れないぐらい、あなたを待たせました。でも、あなたは、一度も、本当に一度も不満を口にしたことは ありませんでした。
そして結婚。ーーあなたを妻に迎え入れた時は嬉しかったです。天にも昇る心地でした。『生涯大切にしよう』その気持ちに嘘はありませんでした。それなのに、力もないくせに夢ばかり追う私は、あなたを泣かせてばかり。
ほんの少しの我慢ができないばかりに転職を繰り返し、何度も引っ越しをしました。また欲しい物があると、何でも後先を考えずに手に入れてきました。
出産。ーー娘が生まれた時は、経済的にどん底の時期でした。お金もなく、誰も知合いのいない東京で出産するのは、どれほど不安だったでしょうか。どんなに心細かったでしょうか。そんな状況でしたが、あなたは気丈にも、独りで病院を決め、独りで入院の支度を整えてーー入院用に用意したレジ袋の中のスリッパ に、あなたの字で名前が書かれているのを目にした瞬間、あなたが、余りにいじらしく、不憫に思えて、もう、泣けて泣けて仕方ありませんでした。
悔いーー結局、結婚生活は丸12年で終わりました。その内、一緒に暮らしたのは、約8年という短いものでした。夫婦でいた間、私はあなたの表層だけしか見ていませんでした。夫婦の縁を結び、仮にも、一度は生涯を伴にすると約束した相手に対しては、それ相応の肉薄をすべきが夫としての義務であったに違いないと思います。愛することや、慈しむこと、或いは逆に憎み、嫌うことであっても、その大前提となるのは、可能な限り、相手を知ろうとする努力です。私はこの努力を全く怠っていました。ひとえに、胸に沁みるのは、自分がいかに、あなたのことを知ろうとしなかったのか、という悔恨ばかりです。このことが最大の後悔です。
そして、今ーーこの頃、あなたの夢をよく見ます。都会の雑踏の中で、あなたを見付けた私は、追い付こうと歩を速めます。しかし、いくら、あとを追っても、決して、あなたの傍には辿り着けないーーそんな夢です。もう何十回似た様な夢を見たことでしょうか。私の生涯の空しさを思う時、あなたとのことのみが、確かなものであったと、この頃、執拗に思うようになりました。
あなたを花に譬えるなら、梅の花です。桜のような強い自己主張がなく、内面の美しさが滲み出た、可憐な一輪の白梅です。あなたが生を享けたその時季、寒さの中に花をつける凛冽たる白梅と、清らかで無垢 な、あなたの姿に、共通のものを感じます。
「人は思い出だけでは、生きてゆけない、いつまでも夢ばかり見ている訳にはゆかない」ーー使い古された言葉ですが、本当にそうなのでしょうか。そんなことはないと私は思うのです。私の様に、唯、それだけを糧に何十年と生きてゆけるような者が確かに存在するのです。人は、どんな辛い時でも、夢だけは見ることができるのではないでしょうか。
そして、その夢だけが、今の様な苦しい時期の私の心を支えてくれているのではないかと思うのです。私には決して醒めることのない夢、何十年経っても現実の手触りを失わない、あなたとの豊穣な思い出があります。
そのことを今、私はとても幸せに思います。
作品ジャンル
手紙
展示年
2025
応募部門
テーマ部門①「あなたへ」
作品説明
元妻へ、懺悔の気持ちを籠めて初めてラブ・レターを書きました。