作品タイトル
檻の中のうた
作者
獄中34年生
作品本文
壱
「今一度 頭(つむ)に触れたし 逢ひたし」と 母の手紙を 歯がみして読む
「馬鹿になれ」母の言ひしは こもことと 握りし拳 密かに解きぬ
母病むと 便りにあれば 塀抜けて 野越え往(い)にたし 秋風のごとく
わだかまり 溶けてわが裡(うち) 安らけし 母の便りの 一つ言葉に
片栗で とろみつけたる 母のカレー 最後に食べし 日は杳(はる)かなり
弐
娘いま 匂(にほ)ふ乙女と 文に来し 昨夜(よべ)見し夢の 幼子(をさなご)にして
別れたる 吾子の名前呼びて 哭く吾の 声に覚めたり 朝(あした)の冷えに
また懐(おも)ふ 吾子の拳(て)吾子の眼 吾子の声 歩き始めし 赤い靴下
ベランダの 朝光(あさかげ)に躍る 濯(すす)ぎ物 幼(をさな)の小さき ブラウスもあり
まう吾子と 行くこともなし 本棚で ぽつねんと立つ 「関西ウォーカー」
参
幾年(とせ)を 逢ひ得ぬ吾子が 明け方の 夢に現(あらは)れ 笑(ゑ)むも淋し気
眠られぬ 夜半(よは)につぶやく 吾子の名よ ただ射干玉(ぬばたま)の 闇に消ゆるか
寒空に 思ひ出づるは 最後の夜(よ) 「ビスコ」の匂(にほ)ふ 娘の寝顔
御気に入りの 赤い靴下を 慈しみ 慈しみ履く 吾子のいぢらし
三歳の 吾子が描きたる 家族の絵(ゑ) 笑ふ三人(みたり)が みな三頭身
四
段々と 元妻(もとつめ)の影 朧げに 髪のにほひは 今に鮮やか
有(いう)線に 流るる昭(せう)和の ラブソング 元妻(もとつめ)想ひ あの頃に翔ぶ
穏やかに 元妻(きみ)もかの地で 老いゐるや 水仙の咲く 季節また来(き)ぬ
嘘を吐(つ)く とき髪いぢる 吾の癖 疾(と)うに元妻(きみ)には バレてをりけり
ホームにて 「じやあ」が言へずに 復(また)一台 遣り過ごしたり 明日(あす)も逢へるに
五
常思ふ 時計の針を 戻したい 囚われ人の 前の時計に
二十(にじふ)年 比所に暮らして いつしらに この獄の服 吾になじめり
糺したき 囚友(とも)への言葉 胸に置き 責めず黙(もだ)しぬ 無期囚吾は
短歌(うた)一つ まとまりかけし 休(きう)日の 獄舎(ひとや)に響く 看守の号(がう)令
我が弱き 心の裡(うち)を 悉く 獄庭(ごくば)の樹々は 知りてか黙(もだ)す
六
靴下を 今日(けう)は右から 履いてみむ 長き暮らしに 変化つけたく
春よ来(こ)よ 早く来(こ)よとぞ 希(ねが)ひつつ 霜焼けの手に 軟膏を塗る
「番号!」と 今朝の号(がう)令 響きたり 一日(ひとひ)正しく 始まりにけり
いつしらに 二十(じふ)八年 檻(をり)の中 鏡の中に 見知らぬ男(をとこ)
指先の 痛さ厳しき この冷気 真冬の朝の 行(かう)進に耐ふ
七
正月(しやうぐわつ)の プチ贅沢に 奢らむか 今日(けふ)は二つの 使い捨てカイロ
幾つもの 「もしも」に吾を 呼び起こす 後悔(くわい)の念 未だ消(け)ゆまじ
あと三月(みつき) 経たばたうとう 人生の 丸半分が 檻(をり)の中かな
目覚めむれば 窓の格子に ああさうだ 比処は刑務所 吾は無期囚
大分に 移り暮らして 二十年 囚友(とも)ら老いゆき 淡き交はり
作品ジャンル
短歌
展示年
2025
応募部門
自由作品部門
作品説明
約20年間、その折々に感じたことを詠んだ35首です。
読まれた方々に、心情の幾らかでも伝わえば幸いです。